歴史人物辞典
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服部半蔵 戦国
(はっとり はんぞう)
馬場信春 戦国
(ばば のぶはる)
蜂須賀小六 戦国
(はちすか ころく)
橋本左内 幕末
(はしもと さない)


原 虎胤 戦国
(はら とらたね)
塙団右衛門 戦国
(ばん だんえもん)



平賀源内 江戸
(ひらが げんない)
土方歳三 幕末
(ひじかた としぞう)
卑弥呼 古代
(ひみこ)
日野富子 室町
(ひの とみこ)


平手政秀 戦国
(ひらて まさひで)
平塚為広 戦国
(ひらつか ためひろ)



福沢諭吉 明治
(ふくざわ ゆきち)
福島正則 戦国
(ふくしま まさのり)
フランシスコ ザビエル
戦国
藤原道長 平安
(ふじわらのみちなが)


藤原璋子 平安
(ふじわら たまこ)
藤原不比等 飛鳥
(ふじわらのふひと)
古田織部 戦国
(ふるた おりべ)



別所長治 戦国
(べっしょながはる)



細川ガラシャ 戦国
(ほそかわがらしゃ)
本多正信 戦国
(ほんだ まさのぶ)
北条早雲 戦国
(ほうじょう そううん)
北条政子 鎌倉
(ほうじょう まさこ)


北条氏康 戦国
(ほうじょう うじやす)
北条氏政 戦国
(ほうじょう うじまさ)
保科正之 江戸
(ほしな まさゆき)
細川忠興 戦国
(ほそかわ ただおき)


本願寺顕如 戦国
(ほんがんじ けんにょ)
本阿弥光悦 戦国
(ほんあみ こうえつ)
本多忠勝 戦国
(ほんだ ただかつ)
細川幽斎 戦国
(ほそかわ ゆうさい)


堀 秀政 戦国
(ほり ひでまさ)



服部半蔵  はっとりはんぞう
戦国時代の武将(忍者) 本名は服部正成

1542年に伊賀の服部家に生まれる

服部家は上忍の家柄だったが、他にも上忍の家があるし・・・ってことで、半蔵のお父さんは伊賀を出て将軍に仕えることに

その後、松平家(家康のおじいちゃん)のとこに仕える

半蔵はこちょこちょと色んな戦いに参加しているが、忍者というより武将としてフツーに戦ってた

出世のきっかけとなったのは本能寺の変

この時、ご主人様の家康はのーんびり堺観光をしてた

そこへ織田信長が討たれたというニュースを聞き、仲良しの家康も危ないってことで「どうする?」ということになった

その時半蔵が「拙者にお任せ下さい」と、伊賀越えルートをススめた

伊賀越えルートに、伊賀出身の忍者をちりばめ、家康は無事に自宅に帰ることが出来た

それから家康は「伊賀忍者」を引き立てまくる

その後、半蔵は江戸へ

今の東京・半蔵門に家を建てたので、「半蔵門」という駅名になった


ニックネーム・・・鬼の半蔵

悲しいオモヒデ・・・家康の長男・信康の介錯 「気の毒で見ていられませんでした」

ヒトコト・・・「ワシは武将である!忍者・忍者言うな!」

ヒミツ・・・実は忍術より槍のほうが得意

歴史メジャー度 ★★★★★ 「忍者といえば真っ先に出てくる」

管理人お気に入り度 ★★★

キャッチフレーズ カリスマ忍者


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馬場信春 ばば のぶはる 1515年〜1575年
戦国時代の武将 武田四名臣の1人

武田信虎・信玄・勝頼と武田三代に仕えた重臣の中でも最も古い人

信玄が父・信虎を追放計画をたてたとき、信玄の味方をした

信玄からは信頼を得まくる

それからも数々の戦いに参加したが、かすり傷一つ受けずに死地をくぐりぬけてきた

が、尊敬する信玄が死んだ

信春にとって信玄が全てだったため、殉死(後追い自刃)を願い出るほど

長篠の戦の時には、異様な織田・徳川の構えをみて危険を察知

勝頼に「今回は危ないかもしれないから一度甲斐に引き返しましょう」と提案

が、「情けないジジィどもめ!臆病風に吹かれたか!」と勝頼に怒鳴られ、仕方なく仲間の山県昌景・内藤昌豊らと、「武田滅亡を見るより、こうなったら華々しく討死し、信玄殿の恩義に報いようではないか」と訣別の盃をかわす

こうして長篠の戦当日

案の定、武田勢は織田・徳川の鉄砲隊の前にめためたに

仲間が次々死んでいく様を見ながら、信春は勝頼に退却を勧めた

焦る勝頼に対し、「なぁに、殿はまだ若い!これから再挙できまする!勝負は時の運ですぞ!」と元気づけ、勝頼が退却するのを見届けると、ここを死に場所と決めた

鎧を脱ぎ捨て、岩に上り、大きな声で「我こそは馬場美濃守昌信なり!」と叫び、単騎で突入

敵の槍を素手で受けて、みずからの胸を刺して自害した


ニックネーム 不死身の馬場美濃

性 格・・・豪傑・豪快・信玄命

尊敬する人・・・信玄殿

好きな人・・・信玄殿

ショックだったこと・・・信玄殿が死んでしまったこと 「ワシも一緒に死にたかった・・・」

織田信長談・・・「あいつ、700騎でうちの6000人もいる佐久間信盛隊を突き崩したんだぜ?あいつの動きは比類なしじゃ!」

最後に思ったこと・・・「勝頼殿が無事に逃げてくれればいいが・・・。わしはここを死に場所と決めたんじゃ。後悔はしとらんぞ。あの世で信玄殿に会えるのじゃからな」

歴史メジャー度 ★★★

管理人お気に入り度 ★★★★★


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蜂須賀 小六 (はちすかころく)
戦国時代の武将

尾張の地侍をまとめるボスだった。まぁヤクザの親分といった感じ

小六は肝っ玉のデカイ男だったので、数千人の家来がいた

この頃、美濃の斉藤家を攻めるため、豊臣秀吉は墨俣城を作ろうとしてた

その時、「お手伝いをしてー!」と頼まれた小六

地理もよく知っていたため、ものすごいスピードで墨俣城を完成させ、斉藤家をビビらせた

これ以後、11歳年下の秀吉に仕えることとなった

石田三成が出てくるまで、政治関係をずっと担当してた

秀吉のことが大好きで、息子に家督を譲ってからは、「秀吉の側で老後を送りたい」といい、60歳で大坂で死んだ

以後、蜂須賀家は幕末まで残ることになるが、「太閤記」という本が出版されたため、「泥棒」イメージから抜けることができず、困ることとなる


好きな人・・・秀吉「あのサルに似た男にワシは賭ける!」

家来A・・・「小六様のやることには必ずついていきます!」

子孫より・・・「1625年に出版された太閤記、アレ、最悪ですよ!おかげで朝廷でもバカにされまくりですよ!野盗なんかじゃありませんよ!」

歴史メジャー度・・・★★★

管理人お気に入り度・・・★★★

キャッチフレーズ・・・戦国の極道


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橋本左内 はしもと さない 1834〜1859年

福井藩の医者の息子として生まれた

16歳の時に大阪の緒方洪庵に弟子入りし、梅田雲浜や横井小楠・西郷隆盛・藤井東湖らと友達になる

そして賢かったので、福井藩主の松平春獄の補佐官となった

将軍の跡継ぎを決めるとゆー問題の時に、藩主・春獄を助け一ツ橋慶喜を応援

結果敗北し、大老の井伊直弼から危険人物と認定されちゃう

そして安政の大獄のときに、「左内は開国派だ!ロシアと日本が連携しろとゆーことを言ってた!」とゆーことで捕らえられてしまう

そして26歳の若さで処刑されてしまった


牢獄の牢名主談・・・「若いのにまこと惜しい天才肌の男だった。代われるものなら代わってあげたかったと思ったほどであった」

マブダチ・・・西郷隆盛「めちゃくちゃ信頼しているでごわす!」

吉田松陰談・・・「橋本クンの噂は色々聞いていました。一度お会いしたいと思っていたんですが、残念な事に2人とも安政の大獄で捕らえられ処刑されてしまいました」

15歳の時に書いた啓発録・・・
「雅心を去る」・・・13歳くらいになったら親に対する依頼心を捨てる
「気を振るう」・・・士気を振るいたてろ!!
「勉学」・・・ものごとの理をはっきりとしろ
「交友をえらぶ」・・・いい友達には学び、悪い友達には教える。どっちとも大事にしろ
「志をたてる」・・・英傑でも一人の人間だ。志によって大きな可能性は生まれるんだ!!
ハガクレのヒトコト・・・15歳とは思えない名言っぷりがたんまりですゾ


歴史メジャー度・・・★★

管理人お気に入り度・・・★★★★


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原 虎胤 はら とらたね 1497〜1564年

武田家に仕えた戦国時代の武将

父とともに武田信虎(信玄のお父さん)に仕え、武功をあげ活躍した

信虎が信玄に追放されると信玄に仕える

でもって、武田二十四将の一人にまでなった

が、虎胤は熱心な法華宗信者だったんだけど、信玄に浄土宗に改宗しろ!と命令され、断ると追放されるというハプニングが

北条氏康のとこに行くんだけど、信玄から戻ることを許された

氏康は「えー、行っちゃうの??」と、かなり惜しんだ

それからも戦場では大活躍するんだけど、高齢になってきたので一線から退くことに

有名な川中島の合戦の頃は悠々と生活をしてた

で、その後68歳で病死した


性 格・・・根が優しくて情に厚い

合戦参加回数・・・38回

特 技・・・城攻め

ニックネーム・・・鬼美濃・夜叉美濃

俺の後釜・・・馬場信春

馬場信春談・・・「武名高い虎胤殿の後を引き継げるとは光栄です」

敵の兵士談・・・「そりゃあ恐ろしい人でした。ですが、ボクが傷ついた時、肩を貸して陣地まで送り届けてくれんたんです。本当は優しい人なのではないでしょうか?」

自 慢その1・・・甲陽五名臣の一人になったこと(信玄時代初期の頃)

自 慢その2・・・信虎サマから「虎」の一字も貰い受けたこと


歴史メジャー度・・・★★

管理人お気に入り度・・・★★★★


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塙団右衛門 ばん だんえもん 1567〜1615年

ほんとの名前は「直之」

でも、団右衛門の方が有名なので、団右衛門と書くことにしました♪

もともとは織田信長に仕えてたらしいんだけど、あまり大事にされてなかった

お次は秀吉に仕えるんだけど、ここでもあまり大事にされなかった

お次の加藤喜明に仕えると、やっとこさ活躍の場を与えられるんだけど、命令違反をしちゃって嘉明にめっちゃ怒られると、ムカついたらしく城門に恨みの手紙を貼り付けて去っていった

そのあともいろーーんなトコに仕えるんだけど、加藤嘉明が邪魔ばっかしてたので長続きしなかった

で、大阪冬の陣の時に豊臣方に参加

ここで蜂須賀軍に奇襲をかけて成功★

「夜討ちの団右衛門」として有名になる

が、大阪夏の陣で浅野長晟軍と戦った戦死してしまった


性 格・・・短気

悪いクセ・・・酒癖が悪い

嫌いな人・・・加藤嘉昭

仕えた武将・・・織田信長・豊臣秀吉・松平忠吉・小早川秀秋・福島政則

加藤喜明談・・・「朝鮮出兵の時に鉄砲大将を任せたんです。なのにアイツは熱くなって敵陣に槍で突っ込んでいったんですよ!大将の器じゃありませんね」

同僚A談・・・「あいつ、ほんとに酒癖悪いんですよ。マジ、やってらんないっす!」

同僚B談・・・「加藤嘉明様は家臣思いで有名なんですよ。その加藤様があれだけ嫌うんですから困ったもんですよ」

スカウトのきっかけ・・・体がデカいので、織田信長に声をかけられた


歴史メジャー度・・・★★

管理人お気に入り度・・・★★★


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平賀源内  ひらがげんない
1728年生まれの江戸時代の人

香川出身

25歳の時に長崎に出て薬草や動物などの勉強をした後、江戸へ行った

画家・陶芸家・小説家・山師などいろんな職業にチャレンジ

が、やること全てがフツーの人と違い型破りだったため「山師」と言われ詐欺師扱いされる

ノイローゼ気味になったのか、突然意味のわからない絵を描いたりと周囲を驚かせる

というか、常にこの人の人生には驚かされっぱなし

バカと天才の紙一重を生きた人だった

生まれる時代が現代だったらば、たぶんスゴイ才能を発揮できたであろう人


性格・・・変人・奇人・狂人

代表作・・・エレキテル

ポリシー・・・祟りのある家であろうと、ワシが気に入れば住む ワシはワシだ

杉田玄白談・・・「彼は天才でしたよ。本物の。いつも新しいことを考え、世の中の常識が通用しないスゴイ人でした」

田沼意次談・・・「彼のことは噂で聞いていました。幕府でスカウトしたのですがちょっと狂い始めてしまいましてね。残念です」

鈴木春信談・・・「わたしの春画はね、彼の助言で素晴らしいものになったのですよ。わたしの絵が高く売れるのも、全て彼のおかげなのです。え?変わってたかって?そりゃあもう。ですが彼は天才でしたよ。本当に。」

歴史メジャー度 ★★★

管理人お気に入り度 ★★★★ 「いっつもサルバトーレ・ダリとだぶる」

キャッチフレーズ・・・日本のレオナルド・ダ・ビンチ


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土方歳三   ひじかたとしぞう
幕末・新撰組のメンバー 副長

多摩郡(今の東京都日野市)の農家の四男として生まれた歳三は、11歳の時に松坂屋に働きに行く

ちなみに松坂屋に働きにいけるってのだけですごいことですが、嫌になっちゃって逃げる

17歳の時に江戸の呉服屋で働くも、女関係で泥沼にはまり逃げる

どうやら「商売」が向いていないらしい

その後、天然理心流に入門し、ここで盟友・近藤勇と出会う

そして幕府が「将軍・家茂の上洛の警備員募集中だよ」というお触れを出すと、近藤らと一緒に応募

京都に行くも、なぜか「あんたらは朝廷を守る役目ですよ」といわれ、「え?幕府の警備員じゃなかったの?」とわけわかんないことに

とりあえず京都に残ることなり、新撰組を結成する

が、気に入らない男登場!その名は「芹沢鴨」

とうとう沖田総司らと芹沢鴨を暗殺し、局長に近藤勇・副長に土方がおさまる

その後も女にだらしない近藤勇をささえ「鬼副長」と恐れられる

「幕府を守る」という使命のもと、薩長相手にバトルの毎日

池田屋に薩長のヤツラが集まって悪巧みをしているというニュースを聞き、池田屋騒動という事件を起こす

これで新撰組の名は一気に「全国区(メジャー)」に

が、だんだん幕府の風向きが悪くなり、とうとう鳥羽・伏見の戦いでボロ負け

ダイスキな近藤勇も死んでしまい、土方は「もう刀の時代じゃない・・・」と、スタイルを洋風に

幕府チームの榎本武明らと幕府のために最後まで薩長らと戦うが、とうとう箱館で戦死した



好きな人・・・近藤勇

嫌いな人・・・薩長のヤツラ全員

悩み・・・「モテすぎて、困ってます」

趣味・・・俳句や和歌を作ること 「恥ずかしいので隠れてやってます」

マイドラッグ・・・石田散薬 「いつも持ち歩いています」

歴史メジャー度 ★★★★★

管理人お気に入り度 ★★★★ 「やっぱりカッコいいから」


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卑弥呼 ひみこ
邪馬台国の女王

いつどこで生まれたのかなどは一切謎

初めて文献に出てきたのは中国の「魏志倭人伝」の中の2000文字くらい

どうやらその頃、日本は小さい国が互いに攻め合っていて、「卑弥呼」という女王をたてたら戦乱がおさまったらしい

「鬼道」に通じたシャーマンだった

「女王」になって以来、卑弥呼の姿を見たものは少なく、何千人もの女性の召使がおり、弟が卑弥呼の言葉を民衆に伝えたらしい

外交にも熱心で、魏(中国)に奴隷をプレゼントしたりした

魏の明帝はかなり大満足したらしい

卑弥呼が死ぬと、男の王様が就任したけど、民衆は言うことを聞かず、また戦いはじめる

そこで卑弥呼の一族である「いよ」が新女王になると、またもや平和になったらしい


特 技・・・神の声を聞くこと

外 見・・・おばあさん

ヒミツ・・・戦前は、日本で始めての「王」が女だということがかっこ悪いってことで、ナイショにされたた。やっとこさ戦後デビューした。

歴史メジャー度・・・★★★★★

管理人お気に入り度・・・★★★


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日野富子 ひの とみこ 1440年〜1496年

室町時代の女傑

日本三大女傑の一人

名門「日野家」に生まれた富子は、8代将軍義政と結婚

が、義政は女好き&政治嫌いだった

そのため室町幕府はガタガタに

「このままじゃ、せっかく生まれた息子がちゃんと将軍になれないかも!」と焦った富子は、あの手この手を使って火の車だった幕府を再建させようとする

が、そのやり口があまりにも「銭!銭!銭!」だったため、ブーイング

それでもライバルを蹴散らし、見事息子を将軍の座に

が、あまりにもアレコレやりすぎたため「応仁の乱」を引き起こす

でもって、幕府の権威は地に落ち、戦国時代へと突入していく


日野富子のインタビュー
ダンナのインタビュー
ダンナの愛人のインタビュー


宝物・・・息子

嫌いな人・・・お今

馬鹿にしてる人・・・ダンナ

協力者・・・ダンナの母・山名宗全・お兄さんの勝光

嫌いな言葉・・・下克上

嫌いな建物・・・銀閣寺 「ったく、こんな大変な時期にあのバカ(ダンナ)は別荘建てたいなんて言ってきたのよ!!」

趣味・・・マネーゲーム

ニックネーム・・・守銭奴 「なんとでもお言い」

ショックだったこと・・・息子が夫に似てきたこと 「一人の女を父子で取り合いしたのです。はぁ・・・」

焦ったこと・・・なかなか妊娠しなかったこと


歴史メジャー度 ★★★

管理人お気に入り度 ★★★★★ おもしろい


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平手政秀 ひらて まさひで 1492年〜1553年

織田信長のじい(笑)

信長のお父さん・信秀時代から外交面で活躍していた

信長が生まれると教育係に任命されるも、あまりの信長の奇行っぷりにてんやわんや

うつけ・信長を頑張って治そうとしてたんだけど、ある日自刃してしまった

62歳でした


死の謎その1・・・信長があまりにもダメダメだったので、それを諫めるために自刃した

死の謎その2・・・信長が自分の息子の馬を欲しがったんだけど、息子が譲らなかったので信長がキレるとゆー事件が。それを死って「情けない」と自刃した

死の謎その3・・・信長のうつけっぷりを他の家臣から散々攻められたから

死の謎その4・・・甥っ子が信長のライバル・信勝の「信長暗殺計画」に加担したから、助命のために自刃

政秀が死んだ後の信長・・・政秀寺を建立して菩提を弔った

頑張ったこと・・・信長様と帰蝶様との婚姻

言いたいこと・・・「教育とは、我慢の連続です」

座右の銘・・・根気


歴史メジャー度 ★★★

管理人お気に入り度 ★★★★


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平塚為広 ひらつか ためひろ  ?〜1600年

戦国時代の武将

相模の平塚出身

最初は明智光秀に仕えており、その後豊臣秀吉の家臣になる

小牧・長久手の戦いや朝鮮出兵にも参加

秀吉が死ぬと豊臣秀頼に仕える

その後、徳川家康がメキメキと頭角を現してくると、西軍に参加

関が原の合戦では大谷吉継の軍に入り戦うが、ガンガン裏切りが出てしまいとうとう討たれた


嬉しかったこと・・・長年の忠義を秀吉様が認めてくれて、石高を戴いたんです

特 技・・・薙刀 「名人レベルですぞ」

ムカついたこと・・・仲間の裏切り

子 孫・・・平塚らいてう

マブダチ・・・大谷吉継

がんばったこと・・・吉継殿と一緒に石田三成に「おまえじゃ家康に勝てない」と何度も言ったんですけど、だめでしたねぇ

ちょっとだけグチ・・・「いやぁ、言いたくないんですケド、ボクの仕事って地味なんですよね。秀吉様の側室の護衛とか・・・」

マイ・辞世の句・・・「名の為に 捨つる命は惜しからじ 終にはとまらぬ 浮世と思へば」


歴史メジャー度 ★★

管理人お気に入り度 ★★★★


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福沢諭吉  ふくざわゆきち
幕末〜明治時代の人  1834年〜1901年 大坂出身の教育者・思想家

小さい頃は勉強が大嫌いだった。が、13歳の時に無理やり学校に行かされ、そこであまりの勉強の出来なさに年下のクラスメートにバカにされ、猛勉強をスタート

それからというもの、勉強のおもしろさにとりつかれ、20歳の時には超有名先生・緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾に入る。

が、腸チフスにかかり死ぬ思いをする

さらに勉強し、1860年には勝海舟とともに咸臨丸に乗ってアメリカへ。ここで辞書をゲットする。

その後、ヨーロッパへ行き、考えた

「いくら頑張っても、身分の低い武士は上へ行けないなんておかしくないか?」と。

こうして1868年に身分に関係なく、勉強したい人は誰でも入れる!という慶応義塾を作る。

ちなみに奥さんダイスキ人間

有名なセリフは著書・学問のススメより 「天は人の上に人を作らず 人の下に人を作らず」


好きな人・・・妻 「ほんと、ダイスキです」

嫌いな人・・・勝海舟 「なんであんな人が偉くなってるんでしょうね?一緒に咸臨丸に乗っていた時の彼は最悪な人間でしたよ」

衝撃的だったこと・・・ロシアで見た手術現場 「血があんなに・・・・気を失いました」

特 技・・・障子張り 「手先は器用なんです」

宝 物・・・ウェブスター辞書 「ボクと、ジョン万次郎しか持ってないんですヨ」

ヒトコト・・・これからはイングリッシュの時代ですよ

歴史メジャー度 ★★★★★

管理人お気に入り度 ★★★★ 

キャッチフレーズ・・・学問オススメ!


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福島正則  ふくしままさのり
戦国時代の武将  秀吉子飼いの将

母が秀吉の妻・おねの妹だったことから、幼い頃から子供のいない秀吉のもとへ

子飼いの将として可愛がられ、成長していく

歴史デビューは秀吉VS柴田勝家の賤ケ岳の戦い

大活躍をし、七本槍の一人に数えられる 

豊臣家内で「武功派」として実力をつけていくも、同じ豊臣家家臣で「文治派(頭脳派)」の石田三成と対立しはじめる

秀吉が死ぬとその対立は悪化

とうとう同じ武功派仲間で幼馴染の加藤清正らと石田三成を襲撃

失敗に終わるも、三成を五奉行から失脚させ、スッキリ!

そんな時、家康が「上杉景勝ってムカつく!あいつやっつけに付き合ってよ」と言って来たので、一緒に小山まで進軍

そこで「石田三成が大坂で兵を挙げた!」というニュースを聞き、家康が「みなさぁーん!聞いてくださぁーい!三成が君達の妻子を人質にして大坂でワシを倒すために挙兵しましたぁーー!みなさんどうしますかぁーー!?」と叫んだ

すると正則、憎っくき三成の思いから「ワシは家康殿につくぞ!」と大声を張り上げた

正直、そこにいた武将たちは「えっ!?マジ!?どうする?相手は豊臣家の後継ぎ・秀頼のために家康をやっつけるっていってんだよね?俺たち秀吉さんには世話になったし、どーすればいいの?」と思ってた

そこに豊臣家のお偉いさんだった正則がこういったもんだから、「なんだぁ!正則さんが家康の味方するんだったら安心だよ」と、みんな家康につくようになった

この時点で正則は、私怨からダイスキな豊臣家のためにとんでもない失敗をしてしまったのである

こうして家康率いる東軍は勝利

大嫌いな三成は処刑された

が、こっからがタヌキオヤジ家康の謀略スタート

家康にとって天下ゲットに邪魔なのは「豊臣家」

その豊臣家恩顧の家臣である福島正則はめちゃくちゃうざったい存在だった

江戸幕府が開かれてから、福島家にアレコレ難癖をつけはじめた

決定的なのは、お城のある広島に台風がやってきてお城が壊れまくった

正則は幕府に「お城直します」という届出を出した(この頃は、武家諸法度というのが出来てて、幕府の許可なしにお城を直しちゃダメという決まりがあった)

が、幕府はいつまでたってもOKしない

我慢できなくなった正則は「どうなってんの?」と詰め寄ると家康家臣の本田正純が「ちょっとだけなら直していいよ」という返事をした

これが罠だった

幕府は「正則が幕府の許可なしに勝手に城を修復した!謀反の兆しあり!」と怒った

正則は「え?本田正純に許可もらったよ!」と言い張ったが正純は「聞いてないよ」攻撃

仕方なく正則はまた城を壊し、元の状態にして釈明したけど幕府は「フン!何をいまさら!領地没収じゃ!」と、正則の領地を没収した

福島家の家臣はめちゃくちゃ怒り、「幕府と戦ったる!」と言い出したが、正則が「家康殿が生きていたらヒトコト文句を言いたいけど、秀忠じゃな」と呟き、とうとう死んでしまった

ちなみに正則が死んだ後、家臣たちは遺体を火葬したんだけど、これも幕府が「火葬の許可は出してない」とイチャモンをつけ、とうとう福島家の領地は全て没収となった

とりあえずお家取り潰しだけは免れた、気の毒な家となった


性 格・・・人情味溢れてる

ポリシー・・・武功派こそ忠臣

好きな人・・・太閤様・秀頼様・おね様

嫌いな人・・・石田三成  ボソッ・・・徳川家康・秀忠

自 慢・・・敵に後姿を見せたことがない!! 筋肉

家臣談・・・「正則様は本当に敵に後姿を見せないんですよ。戦いの時も、逃げる時は背中を見せないように後ろ歩きするんですよ!びっくりしましたよ!」

ヒミツ・・・実は一度だけ敵に姿を見せた 「いやー、このワシとしたことが、生涯で一度だけ敵に後姿を見せてしまったのじゃ。実はな、ワシが浮気して家に帰ったらな、妻が薙刀を持ってワシを待ち構えて追っかけてきたんじゃよ。いやー、あの時は、怖かった。」

歴史メジャー度 ★★★★

管理人お気に入り度 ★★★★

キャッチフレーズ・・・関ヶ原の決め台詞を吐いた男


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フランシスコ・ザビエル
1549年に日本に初めてキリスト教を伝えた人

1506年にナバール王国で生まれたザビエルは19歳の時にパリへ留学

その後、インドにいったりとアジアでキリスト教を広めている途中に、マレーシアで日本人のヤジロウという青年と出会う

どうやらこのヤジロウ、日本で殺人を犯し海外逃亡してた

逃げるためにポルトガル船に無断で乗り込み、マレーシアに行っちゃったらしい

ここでザビエルと出会ったが、このヤジロウがやったら礼儀正しいきちんとした男だったため、ザビエルは「日本人がヤジロウのような民族であったら、日本は最近発見した諸国の中で一番高級民族なのでは?」と思い始めた

そしてとうとう、1548年7月にヤジロウの案内で日本へ上陸

最初に会ったのは薩摩の島津貴久

貴久は布教(キリスト教を広めること)をOKする代わりに、貿易をやってくれるなら・・・という条件を出した

こうして九州では「貿易やらせてくれるならキリスト教広めてもいいよ」という大名が出始めた

が、ザビエルのことをムカついてた人がいた

それが日本の僧達 「キリストは邪教じゃあ!」と言い出し、迫害され始める

1550年にザビエルは日本の王様「将軍」に会うため京都へ

が、応仁の乱の後だったため、京都は荒れ放題

「こんな荒れ果てた京都の将軍に布教を頼むのは無理かも」と、ターゲットを地方大名に変更

周防の大内義隆らに会いに行きました

ちなみに義隆はザビエルが自分を選んだことにご満悦だった

こうしてザビエルは宣教師をたくさん日本に呼び寄せ、1551年に日本を去った

キリスト教はこの後、日本全国に広まっていくことに


驚き体験・・・京都旅行 「アレハビックリネ!ホントニアレガニホンノチュウシン??」

ヒミツ・・・コショウの売買人 「オカネ、モウカルンデスヨ」

歴史メジャー度 ★★★★★ 「絶対一度は見たことある顔」

管理人お気に入り度 ★★


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藤原道長 ふじわらのみちなが 966年〜1027年
平安時代の超エリート

この頃都では伝染病がはやりまくり(どうやら菅原道真の怨霊!?)、権力者がたて続けに死んでいった

次期権力者候補として残ったのが、道長と道長の甥の伊周

伊周の妹・定子(ていし)は一条天皇と結婚しており、かなりラブラブだったの伊周がリードか?と思いきや、道真は一条天皇の母で、姉でもある詮子(せんし)にとりいった

こうして道真は伊周を蹴散らし、見事権力の座をゲット!

そして12歳になる長女の彰子(しょうし)を一条天皇と結婚させた

しかも定子と同じランクの妻

さらにさらに、残りの3人の娘を次々に天皇や皇太子と結婚させまくった

あまりのノリノリぶりに、思わず「この世をば わが世とぞ思う望月の かけたることも なしと思えば」と唄っちゃった

意味は「この世はオレ様のためにあるぜ!みろよ?あの月が欠けてないように、オレの心も大満足!」という意味

確かにこの頃になると、道長に逆らえる人はだーーーーーれもいなかった

みんなわれ先に道真に贈り物やら賄賂やらを送り、藤原氏が始まって以来の大金持ちになった

そして52歳になると息子に摂政をゆずり出家

「極楽にいけますように♪」とお願い三昧の日々を送り62歳で死んだ



外 見・・・光源氏の再来!?

紫式部談・・・「あんなステキな方、他におりませんわ!」

和泉式部談・・・「よくワタクシのことを尻軽女なんていってからかいましたわぁ。ウフ」

清少納言談・・・「ワタクシの定子様をいじめる人は許しませんわよ!」

一条天皇談・・・「ボク、定子が大好きだったのに。でも道長に逆らえず彰子と結婚しちゃった・・・。ゴメンネ定子!許してぇ」

藤原伊周談・・・「殺してやりてぇ」

ヒトコト・・・「この世はワシのもの。ワシのためにこの世は回っているのだ。わはははは」

夢・・・「極楽行き」

歴史メジャー度 ★★★★★

管理人お気に入り度 ★★★


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藤原璋子 待賢門院璋子 ふじわらたまこ たいけんもんいんたまこ 1101年〜1145年
平安時代の女性 大納言藤原公実の娘

幼い頃から美少女で(ちなみに藤原公実は美形一族)有名だった

14歳ごろから火遊びをはじめ、奔放な少女となっていく
そんな美少女を好きになっちゃったのが、時の権力者の白河法皇

もうじーさんだってのに、48歳年下の孫のような璋子にメロメロになり、愛人関係を持つように

そして白河法皇は、自分の孫である鳥羽天皇と璋子を結婚させちゃう

が、その後も17歳の璋子と65歳の白河法皇はラブラブ。そして鳥羽天皇はイライラ

とうとう、璋子は白河法皇との子を妊娠。生まれたのが後の崇徳天皇

おかげで崇徳は、父である鳥羽天皇に嫌われまくる

そして白河法皇が死んでしまい、鳥羽天皇は大喜び♪早速若くて綺麗な奥さん得子をゲット

こうして新妻得子と、璋子との間でバトルが繰り広げられるも、後ろ盾(白河)のいなくなった璋子は敗北し出家する

そして45歳でひっそりと死んだ


白河法皇談・・・「ほんっとにカワイイのー!璋子ちゃんは!」

鳥羽天皇談・・・「自分の妻が祖父とデキてるなんて許せます?だけど璋子はほんっとに綺麗で、ついつい見とれてしまうんです・・・」

後宮の人A談・・・「まったく信じられませんワ!堂々と浮気してるんですよあの二人!」

後宮の人B談・・・「いやー、ほんとにお綺麗な方なんですよ。あれじゃあ世の男性はほっときませんよ」

崇徳天皇談・・・「オヤジ(鳥羽)はサ、ひいじい(白河)とママ(璋子)には全然逆らえねーの!文句も言えないんだぜ?その恨みが全部オレに来てるんだぜ?やってらんねーよ!!!」

新妻得子談・・・「ほほほほほほ。いくら美しかろうと、鳥羽天皇の寵愛はワタクシのものですわよ!」


歴史メジャー度 ★★

管理人お気に入り度 ★★★★

キャッチフレーズ 保元の乱の元凶


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藤原不比等 ふじわらのふひと 659年〜720年

古代のボス

藤原氏の地位を不動にした人

不比等は藤原鎌足(中臣鎌足)の次男として生まれました

長男は病弱だったため、お父さんの期待は優秀な不比等に

でもってその期待に応えられちゃったのが不比等

大宝律令の編集にも参加し、先輩たちを差し置いてどんどん出世していき、藤原摂関政治の基盤を作り上げました


オレ様のやったこと・・・・大宝律令の編集。オレ様の一族だけが「藤原」という名前を名乗ることができるようにした。娘を天皇の皇后にすることに成功した。和同開珎に関わった。

持統天皇談・・・「不比等はほんっといい子なのよ。頭もいいし、おしゃべり相手にぴったり」

ヒトコト・・・藤原万歳


歴史メジャー度 ★★★★★

管理人お気に入り度 ★★★★

キャッチフレーズ・・・律令時代の大物プロモーター


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古田織部 ふるた おりべ 1543〜1615年 

戦国時代の武将&織部焼きの創始者

美濃で生まれたという説や、信長の茶坊主から出世したという説がある

武将としてはたいした功績はないんだけど、茶人としてはピカイチ

信長もお気に入りだった

その後、秀吉に仕えるも、ここでも武将としての功績は無し

この辺りから千利休と知り合い、弟子入りし「利休七哲の一人になる

利休死後は、豊臣家の筆頭茶人になった

関ヶ原では東軍になったんだけど、織部も利休と同じく反骨精神を持った男だったので、家康から危険視される

でもって謀反の噂がたち、家康から切腹を命じられ、ヒトコトも釈明せずに切腹した


尊敬する人・・・千利休 「秀吉殿に切腹を命じられ、京都を去るとき、誰も見送りにいきませんでした。私と細川忠興殿だけが利休先生に会いに行ったのです」

織部の生徒・・・徳川秀忠・伊達政宗・前田利長・毛利秀元

嫌いな人・・・徳川家康

俺の茶・・・侘び茶

ドジ話・・・大阪の陣の時、佐竹義宣のとこでお茶をたてようとした時、茶杓が無かったのでその辺をウロウロ探した。すると織部のはげ頭がピカっと光ったため、敵が「あの光はなんだ?」と鉄砲を撃つと、織部の頭にちょっとかすった。佐竹陣の人々は笑いを我慢したそーだ

秘密・・・実はキリシタン


歴史メジャー度 ★★★★

管理人お気に入り度 ★★★★

キャッチフレーズ・・・日本のダ・ビンチ

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別所長治 (べっしょ ながはる) 1556年〜1579年
戦国時代の大名

赤松氏の流れを汲む名門。お父さんが早死にしたため、長治は12歳で家督を継いだ

21歳の頃、織田信長が秀吉を総大将にして、中国平定に乗り出すと、別所家は秀吉につき、毛利家を一緒にやっつけることに

が!長治の叔父さんである三木賀相(みきよしすけ)が、秀吉のことが大嫌いだった

理由は「おれら名門だぜ?それがナゼ草履係りだった男の下につかにゃならんのだ?」と、プライドの高さから秀吉に反旗を翻すことに

ただでさえ「農民出身」にコンプレックスを持っていた秀吉は、これに激怒し、長治のいる三木城を兵糧攻めにすることに

ネチっこく精神的に追い詰め、食べるものもなくなってきた三木城

とうとう長治は「オレが切腹するから許して」と降伏

こうして23歳で切腹することとなった


三木城の人A・・・「鼠、食べて過ごしました」

三木城の人B・・・「草、食べて過ごしました」

三木城の人C・・・「口に入るもの全て食べて過ごしました」

三木城の人D・・・「人肉、食べました」

ヒトコト・・・「切腹の日、みずから妻と3歳の息子を殺しました。辛かったです」

秀吉談・・・「ワシをバカにするからじゃあ!」

歴史メジャー度・・・★★

管理人お気に入り度・・・★★


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細川ガラシャ  ほそかわ がらしゃ
戦国時代の超美人 本名は玉

明智光秀の三女として生まれる。13歳の時に織田信長の命令で、細川幽斎の嫡男・細川忠興(15歳)と結婚。

お父さん同士も仲が良く、本人達もラブラブ生活を送っていた。

が!!!お父さんの明智光秀が本能寺の変で主君・織田信長を殺してしまった

細川家は大パニック!「やべー!玉は逆臣の娘じゃん!!とりあえず玉をどうにかしないと」ということに

が、忠興は玉が好きだったので離婚できず、隔離&幽閉する

そして時代は秀吉の天下に。

玉は何とかお許しを得て細川家に戻ってくるも、肝心の忠興がすでに側室をゲットし浮気三昧の生活

ショックの玉はキリスト教にハマり、「ガラシャ」という洗礼を受ける

が、秀吉はキリスト教禁止令を発令。忠興はガラシャに「キリスト教やめろ!」とまくしたてるが、ガラシャの心はすでにデウス様。

「何よ!あんたなんてワタシのパパを見殺しにしたじゃないの!それに帰ってきたら浮気ばっかしてるし、私を外に出させてくれないし!こんな息のつまる生活真っ平よ!」と反抗しまくる

何が何でも改宗しない玉に、忠興もムッカムカ

さらに美人として有名な玉の噂を聞き、秀吉にも狙われる

忠興ドッキドキ しかもかなりのヤキモチ焼

そのため玉はますます外に出られなくなった

そうこうしているうちに、秀吉が死に、秀吉VS三成の関ヶ原の合戦へ突入

忠興は東軍の家康チームに入っていたが、三成は大阪にいる東軍武将の妻子を人質に取ろうと計画

が、ガラシャは「冗談じゃないわ!人質なんてなってたまるもんですか!」と、家臣に自分を殺させ、細川家で燃えた

ガラシャの死を知った忠興は大ショック

「玉ぁぁぁ」とめそめそしまくった


好きな人・・・一応忠興 「いろいろと複雑なんデス」

嫌いなタイプ・・・秀吉 「なに あのサル!冗談じゃないわ!」

親 友・・・清原マリア 「ワタシを導いてくれたの」

心の恋人・・・デウス様

秀吉談・・・「いやぁ、いい女じゃった。じゃが、ワシが近くに呼んだら、着物の裾から短刀をポトリと落としよった。目が「このアタシに手を出したら殺るわよ?アンタ覚悟しいや」と言っておったのじゃ。いやー、まいったまいった」

歴史メジャー度 ★★★

管理人お気に入り度 ★★★★ 「曲げないとこがいい」

キャッチフレーズ・・・美人薄命


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本多正信 ほんだ まさのぶ
戦国時代の武将 家康後期のブレーン

身分の低い出身で、鷹匠だったとも言われている

貧しさのため一向宗にハマり、三河一向一揆の時は、一向宗側の「参謀」として大活躍

一揆は鎮圧され、正信は「改宗しろ」と言われたが、信仰を諦めなかったため徳川家を追放された

その後、戦国腹黒代表選手・松長久秀に仕え、久秀に「稀にみる逸材じゃ!」と褒められるものの、あまり気が合わず出て行った

それからは貧乏生活突入!明日の食べ物もないくらいのどん底生活に

それを見かねて助けてくれたのが、徳川家の家臣・大久保忠世

家康にお願いして本多正信をもう一度徳川家に仕えるようにしてくれました

戻ってきた正信は、姉川の合戦の時に危うく捕虜にされそうになったところを助け出されるという失態を侵し「佐渡の腰抜け」とバカにされる

が、家康は正信を側近にした

どうやら正信の政治能力を見抜いたらしい

おもしろくないのは徳川の武功派

さらに合戦の時代が終わり、江戸幕府を開く頃になると武功派(戦い屋)は活躍の場がなし

代わりに活躍の場を与えられることになったのが正信ら文治派(政治屋)

こうなってくるともうおもしろくない

「裏切りモノのくせに!」「味噌や豆の勘定しかできないくせに!」などなどブーイングの嵐

さらには正信を助けてくれた大久保忠世の息子・忠隣とケンカをおっぱじめる

グッドタイミングで「大久保長安事件」とうのが勃発し、それに連座して忠隣は失脚

が、最後は嫌われすぎて家康亡き後、本多家は失脚する


大久保彦左衛門談(忠世の弟)・・・「ええ書きましたよ!三河物語に書いて書いて書きまくってやリしたよ!だいたい我ら大久保家は飯も食べずに徳川のために尽くしてきたんですよ?それを何ですか!今の世の中で出世するヤツの極意をお教えしましょう。@以前主君に背いておきながら舞い戻った奴 A卑怯な振る舞いで人に笑われる奴 B行儀作法が完璧で城内でうまく立ち回れる奴 Cソロバン勘定が得意な奴 ついでに出世できない人もお教えしましょう @主君一筋で働いてきた者 A礼儀作法が下手な者 Bソロバンが苦手な者  は?何か文句ありますか?」

榊原康政談・・・「ケッ!あいつはな、秀忠殿より上座にすわっとるんじゃぞ?腰抜けのくせによくも・・・」

徳川家康談・・・「いやな、正信はツーと言えばカーなのじゃよ・・・。このワシの頭脳についてこれる男なのじゃよ・・・。それにな、正信は欲がないのじゃよ。」

徳川武功派談・・・「とにかく大嫌いじゃあ!」

特技・・・ソロバン

歴史メジャー度 ★★★

管理人お気に入り度 ★ 「司馬遼太郎の関ヶ原を読む限りでは、好きになれない」

キャッチフレーズ・・・家康の腹黒担当


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北条 早雲 ほうじょう そううん 1432年〜1519年
戦国大名のさきがけ

出自はハテナ?どうやら妹が駿府の今川義忠と結婚していたらしい。

で、この今川家で後継人争いが勃発し、ここに早雲が割り込み、妹の子を後継ぎにすることに成功

こうして早雲はご褒美にお城を一つもらった。この時55歳

その後、どーしてもいろんな国がほしくなっちゃった早雲

昔のワル仲間とともに策略を張り巡らし、まzは伊豆をゲット!

お次は小田原をゲット!

そしてとうとう関東を制覇!

88歳まで戦いまくった戦国大名第一号となった


好きな言葉・・・下剋上

特技・・・合併・吸収

信じるもの・・・夢のお告げ

大森家談・・・「ひどいです!鹿狩りをしたいっていうから、僕のとこの領地に入っていいって言ったんですよ!それなのに城を奪うなんて!ずるいです!」

領民談・・・「早雲様最高です!なんてったって四公六民ですよ??それにお医者さんも増やしてくれたんです!早雲様バンザーーーーーイ!」

隣国の領民談・・・「早雲様のところに行きたいです。うらやましいです」

歴史メジャー度 ★★★★

管理人お気に入り度 ★★★★


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北条政子 ほうじょうまさこ 1157年〜1225年
鎌倉時代のトップレディ

伊豆の豪族生まれの政子は、幼い頃から男勝りだった

そんな頃、罪人として源頼朝が伊豆に流されてきた

都の香り漂う頼朝を政子は好きになり、父・北条時政の反対を押し切って頼朝と結婚

男の子2人と女の子2人を出産した

頼朝は東国武士の協力により、義経らを使い平氏を滅亡させることに成功

鎌倉に武士の国を作り、征夷大将軍となった

が、大好きな娘大姫が死んでしまい、すぐに夫の頼朝が馬から落ちて死亡

さらにその五ヵ月後に、娘の乙姫も死んでしまい、立て続けに起きた悲しみのあまり「尼」となった

頼朝の死後は、長男の頼家が21歳で二代目将軍に

が、頼家は奥さんの実家とばっか仲良くしており、さらに能力的にもイマイチ

そのため政子が影の将軍となって実権を握っていた

不満になった頼家は謀反を企てるも政子にバレてしまい、なんと政子は鎌倉幕府を守るためにわが子を殺してしまう

次に将軍になったのは次男の実朝

が、実朝は頼家の息子である公暁に暗殺されてしまった

この幕府内の動揺を知り、「これはチャンス!今こそクソ生意気な幕府から政権を取り戻すときだ!」と張り切ったのが後鳥羽上皇

こうして幕府VS朝廷のケンカ「承久の乱」が始まる

この時政子はビビる鎌倉の武士たちにむかって名演説を行い、鎌倉武士の心を一つにした

こうして政子は鎌倉幕府を支え続け69歳で死んだ



性格・・・男勝り 強気

外見・・・あまり美人じゃない

スキな人・・・頼朝

嫌いな人・・・亀の前・牧の方・後鳥羽上皇

嫌だったこと・・・息子殺し

願い・・・「頼朝の浮気グセが治りますように」

オモヒデ・・・「ワタクシには婚約者がいましたの。ですが結婚前夜、雨の中、頼朝殿のもとへ逃げていきましたの・・・。青春でしたわ」



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北条氏康 ほうじょう うじやす 1515年〜1571年
戦国時代の大名 北条家の全盛期を築いた人

初代早雲・そして二代目は氏綱
北条家三代目の氏康は、生まれた時から四方八方バトルだらけ

関東を制覇するために戦い続けていました

一躍名を有名にしたのは「川越の合戦」
「関東管領」という役職(関東地方を治めるというもの)を巡って山内上杉氏とバトルした時に、8万の敵に対して3000人で夜襲をかけ大勝利

これをきっかけに関東一円をゲットしていく

が、この「関東管領」という役職を、山内上杉氏があの「上杉謙信」に譲っちゃったもんだから大変なことに

以後、関東制覇に向け上杉謙信とたびたびバトル

さらにはお隣武田信玄とも領地争いでバトル

さらに奪った領地の里見家ともバトル

さらにさらに、山内上杉家とも相変わらずバトル

とにかくバトルだらけ

バトルだらけなので、居城である小田原城は改築・改築・増築・増築と巨大な城となっていく

が、武田・今川と「ひとまずお休みしましょうや」ってことで三国同盟を成立させ、お互い楽チンに

が、それもつかの間

同盟は破棄されまたもバトル

この頃武田信玄はノリノリだったので、北条に攻め込むことに

しかたないので氏康は嫌いな上杉謙信とも同盟を組んだ

が、武田信玄が小田原城に攻めて来た時、氏康は謙信に対して「応援に来て」とお願いするも、謙信は援軍をよこさなかった

そのため氏康はまたも謙信のことを嫌いになる

こうして一生バトルを続け、とうとう57歳で死去した

死ぬ時、「謙信は信用できん!武田信玄と同盟を結べ!」と言った



氏康伝説・・・生涯三十六度の合戦で、たった一度も敵に背を見せておらぬぞ。受けた傷は全て向こう傷でござる

息子・直政のこと・・・「アヤツは一杯の飯にかける味噌汁の量もわからんヤツじゃ。ワシが死んだら北条が心配じゃ」

自慢・・・「小田原城はあの上杉謙信に攻められてもビクともしない堅城ぞ!」

北条幻庵談・・・「氏康は智と武を兼ね備えた武将じゃい!ウッ!ゴホゴホッ」

氏康の妻(瑞渓院)談・・・「わたくし、北条のライバル今川の娘でございます。ですが、わたくし達はとっても夫婦円満でございましたのよ?子供も12人も生みました♪教育が良かったせいか、子供同士の争いもまったく無いのでございますのよ?おほほほ」

領民Aの声・・・「早雲様の時代から、わが領主様は農民にほんっと優しいのじゃ。ワシ、相模に生まれて良かったぞよ〜」

領民Bの声・・・「戦になると、わしら農民は紙の鎧なんじゃよなぁ・・・とほほ」



歴史メジャー度 ★★★★★

管理人お気に入り度 ★★★★★


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北条氏政 ほうじょう うじまさ 1538年〜1590年
戦国時代の大名 北条氏康の息子

四代目として氏康から教育を受けるも、イマイチぱっとしない子だったらしい

そのため氏康はいっつも心配していた

氏康の遺言で「武田信玄と同盟を結べ」と言われ、同盟を結び、何とかかんとか北条の威信を保っていた

そして1580年には嫡男・氏直に家督を譲った

が、この頃豊臣秀吉による天下統一は最終段階に入っていた
九州を制圧し、残るターゲットは関東のみ

秀吉は何度も「豊臣の家来になれ」と手紙を送るも、「わが北条をなめるなやぁ!」と一切無視

とどめに真田昌幸の城を、北条家の家臣が奪い取ったため小田原攻めの「大義名分」を与えてしまった

こうして秀吉は20万人以上の兵を連れ小田原城へ

対する北条は小田原城へ5万人で籠城した

籠城すること3ヶ月

入ってくるニュースは「○○城が落とされました」「○○城が降伏しちゃいました」という嫌なニュースばかり

とうとう降伏することを決意した

こうして氏政は53歳にて切腹させられてしまったのでした



パパ・氏康のこと・・・「味噌汁の量を間違っただけであんなに言われるなんて。いじいじ・・・」

徳川家康談・・・「だから何度も秀吉に降伏しろってアドバイスしたのに!まったプライド高いんだから!」

淀君談・・・「私も小田原城包囲のパーティに呼ばれちゃった。関東初めて♪うふ」

声を大にして言いたいこと・・・「あのさ、みんな僕のことバカ殿って思ってるみたいだけどさ、僕だって武田・上杉そのた諸々の奴らに囲まれて頑張ってたんだけど!!滅亡させちゃったからってあほ呼ばわりするなぁ!」

辞世の句・・・切腹前に詠みました。力作です
         「我身今きゆとやいかにおもふへき 空より来り空に帰れば」
         「雨雲のおほへる月も胸の霧も はらいにけりな龝の夕風」

攻められている時の小田原城内の様子

家臣A・・・「どっ、どうします??」

家臣B・・・「籠城続けましょうよ!」

家臣C・・・「いやでも、あの大軍見た?見た?ねぇ、見たぁ?」

家臣D・・・「あいつら宴会始めてますよ!うちらのことナメてますよ!」

家臣E・・・「そうっスよ!北条の意地、見せたりましょうよ!降伏なんて冗談じゃないッスよ!」

家臣F・・・「でも兵糧足りますかねぇ・・・」

家臣G・・・「どうしましょうかねぇ?」

以後、延々と続く・・・・・このようにいつまでたっても結論が出ないことを「小田原評定」と言う



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保科正之 ほしなまさゆき 
江戸時代の大名 三代将軍家光の義弟

正之は二代将軍秀忠がたった一度浮気した女性(お静の方)との間にできた子供

秀忠は奥さんのお江与にバレたら殺されるぅー!ってことで、正之の顔も見ず、信州高遠の保科家に養子に出された

さてさて家光が三代将軍となり、実弟と大喧嘩し、とうとう弟を殺してしまった
そんな頃、寺の坊さんに「あなたにはもう一人弟がいますよ」と教えられる

家光は「弟なんぞロクなもんじゃねぇ!」と言いつつも、正之が気になり密かにチェック

するとあまりの正之の品行方正さを気に入ってしまう

こうして家光は正之を自分の弟と発表
「俺の弟なんだから名前を松平に変えろよ。で、家紋も葵にしろ」と言われるも、「育ててくれた保科家に申し訳ないから」と辞退

その謙虚さに家光はますます正之を気に入り、会津藩の当主とさせる

こうして家光は正之を重宝し、正之も家光のために忠誠を尽くす

家光が48歳で亡くなる時、枕元に正之を呼び、「家綱(四代目将軍」を頼む」とお願いした

正之はその言葉を忠実に守り、会津藩は何があろうとも徳川に忠誠を誓うという藩の法律を作った

これが幕末の時に会津藩の松平容保らを苦しめることとなる



正之の三大美事
@ 殉死の禁止・・・主君の後を追って切腹するのを禁止した
A 養子禁止の緩和・・・長男が生まれなければお家断絶だった時代、養子を貰うことを許した
B 人質制度廃止

ポリシーその1・・・人民のための政治をやります!
ポリシーその2・・・会津藩は何が起ころうとも幕府に刃を向けてはならぬ!!

同僚A談・・・「まさかアイツが将軍の弟だったなんて!もっと仲良くしてれば良かった」

同僚B談・・・「明暦の大火の時に江戸城天守閣が燃えたんだよ。カッコ悪いから建て直そうって事になったんだけどさ、正之がそんなものに金をかけるより火事で家が燃えた人々を助けろって言ったんだよねー。まさにつるの一声だったよ」

正之のやったこと・・・日本初の国民年金制度を作った
「正之様は、領民が90歳になったら生涯食い扶持をくれるのです。ありがたやありがたや」

明治新政府談・・・「フン。保科正之がいかに名君であろうと、会津藩は最後まで我ら薩長に抵抗した逆賊ぞ!!そんな会津の精神を作ったヤツを教科書に載せてやるものか!」

幕末の会津藩の領民の声・・・「わが会津に降人はおりませぬ!!」



歴史メジャー度 ★★★

管理人お気に入り度 ★★★★★

キャッチフレーズ・・・消されたヒーロー


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細川忠興 ほそかわ ただおき 1563年〜1645年

戦国時代の武将

父である細川藤孝(細川幽斎)は、明智光秀の親友で将軍足利義昭の側近でした

お父さんが織田信長の家臣になり、親友の光秀の娘・玉(ガラシャ)と結婚

二人とも16歳でした

が、明智光秀が信長を本能寺で殺してしまった(本能寺の変)

光秀は忠興・藤孝父子に協力を求めてきたんだけど、二人はこれを断った

で、光秀の娘である玉を幽閉しちゃいました

その後、豊臣秀吉が光秀を討つとめでたく玉と復縁

が、玉は幽閉されてる間に浮気してた忠興にショックを受け、でもって、父を見捨てた父子にショックを受け、キリシタンになっちゃいました

それでも忠興はラブリー・玉と別れることができず、男の目に触れないように玉を家の奥に閉じ込めてました

そんな二人でしたが、石田三成と徳川家康の「関ヶ原の合戦」が始まった

石田三成は大阪にいる東軍の家族を人質にとろうとした

玉はそれを拒み、自害しちゃいました

忠興号泣

三成憎し!!と、がんばる忠興

家康もダイスキな奥さんを殺されちゃった忠興に肥後・熊本をあげました

その後は大阪の陣のあと隠居

もともとスキだった茶の湯や和歌三昧で暮らしました


宝 物・・・玉!玉!玉!玉!玉!「それ以外、何があります?」

嫌いな人・・・石田三成 「オレの玉をよくもぉぉぉ」

むかついたこと・・・玉がキリシタンになったこと 「腹立ったから玉に余計なこと吹き込んだヤツラの耳と鼻を切ってやりましたよ!」

玉!命!談1・・・「玉が自害した後、大阪屋敷から逃げてのうのうと生き延びてたやつを見つけ出して殺してやりました」

玉!命!談2・・・「玉が庭師の男と話してたので、むかついたからそいつを殺してやりましたよ」

玉!命!談3・・・「秀吉殿がキリシタンを迫害した時、父に離婚しろと言われましたが、どーーーしても玉を手放すことはできませんでした」

玉!命!談4・・・「玉が自害したと聞いたときは、もうこの世も終わりだと思いました」

玉!命!談5・・・「キリシタンは大嫌いでしたが、晩年は玉のためにキリスト教を保護しました」

子孫(細川護熙談)・・・「どうも。18代目です。せっかく天下統一したんですが、すぐダメになっちゃいました。やっぱ総理大臣は大変デスネ〜」

歴史メジャー度 ★★★★

管理人お気に入り度 ★★★


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本願寺顕如 ほんがんじ けんにょ 1543年〜1592年

戦国時代の僧侶

石山本願寺の僧侶として12歳で十一世法主を継いだ

で、六角定頼の幼女である如春尼と結婚。この如春尼の実のおねーさんが武田信玄の正室・三条夫人だったため、顕如は武田信玄の義理の弟になる

とゆーことで、けっこう親密なお付き合いをしてた

が、織田信長が本願寺にお金を要求してきた

本願寺はこれくらいなら出してもいいやと、お金をだすんだけど、今度は石山からどけと言って来た

怒った顕如は、全国の門徒宗に信長と戦うこと命じました

でもって、信長は石山本願寺攻めを執拗にやるんだけど、本願寺も頑張りまくった

が、顕如のバックだった武田信玄も死んじゃって、とうとう本格的な石山攻めに

戦いは11年も続いたけど、とうとう和睦し石山を去ることに

この時、長男の教如が戦いをやめた顕如のことを「なんで和睦すんだよ!」と怒り、独立してしまう。これが東本願寺

その後、信長が死んで豊臣秀吉がNO1になると、和解して京都に本願寺教団を再興する。これが西本願寺

信長のせいで、本願寺は東派と西派に分かれてしまったのでした


嫌いな人・・・織田信長!!!

お仲間・・・毛利家・武田家・浅井家・朝倉家

むかついたこと・・・おれんちの跡地に秀吉が大阪城を建てたこと

ショックだったこと・・・武田信玄が死んじゃったこと・信長が伊勢長島の門徒宗を虐殺しまくったこと

織田信長談・・・「ほんっとしつけーヤツラだったぜっ。俺様の天下統一が10年遅れたぜ」

夫婦仲・・・政略結婚のわりには、仲良しだった


歴史メジャー度 ★★★★

管理人お気に入り度 ★★★


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本阿弥光悦 ほんあみ こうえつ 1558〜1637年

戦国・江戸時代の芸術家

もともと本阿弥家とゆーのは、刀の鑑定や刀研ぎなどをする家柄

長年にわたって色んな大名から高く評価されてて、本阿弥家に刀を預ける人がいっぱいいた

そんな中でも光悦は不世出の名人!!

刀関係だけでなく、書道や陶芸・茶道などの才能もありまくり

日本文化に与えた影響は大きい


ビックリしたこと・・・千利休が秀吉から切腹を命じられたこと「ボクも危ないんじゃないかと思いました」

茶道の師範・・・古田織部 「織部先生が家康から切腹を命じられたんです。ボクも危ないんじゃないかと思いました」

嫌いな場所・・・江戸 「あんな場所大嫌いです!」

嫌いな人・・・徳川家康

自 慢・・・芸術村を作ったこと


歴史メジャー度 ★★

管理人お気に入り度 ★★★

キャッチフレーズ・・・戦国のマルチ・アーティスト


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本多忠勝 ほんだ ただかつ 1548〜1610年

戦国時代の武将 徳川四天王の一人

本多忠高の長男として生まれ、幼い頃から徳川家康に仕える

初陣は桶狭間の合戦(13歳)

以後、57回の合戦に参加し、大活躍

その活躍っぷりは敵からもほれ込まれるほど

武田軍からは「家康に過ぎたるもの」と言われ、小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉から「忠勝はもったいないから殺すな」と言われた

が、平和な江戸幕府が始まると活躍の場がなくなってくる

幕政の中枢から外され、遠ざけられた

忠勝は長年仕えて来た家康に遠ざけられるのは辛い・・・と言いながら死んでいった


大好きな人・・・家康様!!絶対お側を離れません!

宝物・・・蜻蛉切

ポリシー・・・薄着

特技・・・トンボを切ること

ニヤリ話・・・「俺様ってば、合戦の時はいつも無傷なんだけどさ、同じ四天王の井伊直正はいっつも重装備で傷だらけでやんの」

苦手タイプ・・・加藤清正「おなじ匂いがすんだよな」

嫌いなタイプ・・・インテリ

豊臣秀吉談・・・「天下無双の大将」

織田信長談・・・「花も実も兼ね備えた武士だな」


歴史メジャー度 ★★★★

管理人お気に入り度 ★★★★

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細川幽斎 ほそかわゆうさい 1534〜1610

戦国時代の武将

足利将軍家に仕えている家柄で、幽斎も足利義輝に仕えてたんだけど、殺されちゃったので足利義昭に仕える

この時織田信長と出会い、信長の家臣に

その後、豊臣秀吉に仕える

なんといっても芸達者なので、どこいっても芸が身を助けた

息子は細川忠興


親友・・・明智光秀

好きな人・・・奥さん「側室なんぞいらんわい」

特技・・・歌道・茶の湯・料理・古典・音曲・礼式 「日本文化はまかせてくだされ」

ラブリースポット・・・京都

びびったこと・・・マブダチ明智光秀に本能寺で信長殺害計画を相談されたこと

心配事・・・息子の忠興が嫉妬深すぎること

ブルーだったこと・・・明智光秀を見捨たこと

徳川家康談・・・「あやつの文化性は貴重ぞよ」

豊臣秀吉談・・・

言いたいこと・・・武勇もできますから!!


歴史メジャー度 ★★★

管理人お気に入り度 ★★★

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堀秀政 ほり ひでまさ 1553〜1590

戦国時代の武将

堀秀重の長男として生まれ、13歳で織田信長の小姓&側近になる

16歳の時に足利義昭の御所工事をするために普請奉行になるとゆー、めちゃくちゃスピード出世

どーやら信長は秀政を買ってたらしい

事務系だけではなく、浅井攻めにも参加していて、どーやら武人としても優秀だった

信長が本能寺の変で殺害されると、豊臣秀吉につく

が!!これだけ優秀で未来ばバラ色!かと思いきや、どうやら体が弱かった

小田原攻めに参加した時に、病をこじらせ38歳という若さで死んでしまった

もし長生きしていたら・・・と、思わざるを得ない武将である


家臣を使う時のポリシー・・・「適材適所」

織田信長談・・・「秀政は優秀なだけではないのだ。顔もイケメンなのだ。蘭丸が出てくる前はすごく可愛がってやったぞよ」

豊臣秀吉談・・・「秀政はめっちゃいい子だにゃー。ワシはあやつの才能を買っているぞよ。なのに・・・なのに早死にしやがって!あほうめが・・・」

小姓仲間談・・・「あいつは何をやらせてもそつなくこなすんだよ。むかつくよなぁ」

元・小姓仲間談・・・「え?あいつ死んだの??まじ??うわぁ〜、優秀だったのになぁ〜。もったいね〜」


歴史メジャー度 ★★

管理人お気に入り度 ★★★

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